芦名 雅 / 第5話

第4章 水

※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。 特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません 水がなくなった。 渇きは痛みより静かに広がった。最初は唇が乾くだけだった。次に舌が口の中へ貼りつき、唾を飲み込むことさえ意識するようになった。水という言葉を誰かが口にするたび、灯子の喉が勝手に動いた。 正確には、水場への道が砲撃で使えなくなった。 壕の中には負傷者が百人以上いる。 傷を洗う水。 飲む水。 器具を洗う水。 どれも足りなかった。 「朝露を集めよう」 昌子が言った。 まだ暗いうちに布を外へ広げ、草についた露を吸わせる。 絞って容器へ入れる。 少女たちは何度も往復した。 集まる量はわずかだった。 それでもゼロではない。 「こんなの、一杯になるまで何年かかるの」 夏子が言った。 「文句言うなら絞るの交代して」 千鶴が返す。 「文句言いながらやるのが私の仕事です」 夏子は布を絞った。 灯子は笑った。 笑えるうちは、まだ自分が自分でいられる気がした。 午後になると、壕の壁に浮いた湿り気を指でなぞって舐める兵士が出始めた。 空の水筒を何度も口へ運ぶ者もいた。 子供が「お水」と泣いた。 その声を聞くたび、少女たちは自分の舌の乾きを意識した。 休憩のとき、初江はかなの前髪を指で梳いた。汗と土埃で束になっていた。 「ほんとに切りたい」 「今?」 「今は鋏ないから無理」 「あっても切らせない」 「絶対似合うのに」 かなは初江の手を払った。 「帰ってからにして」 二人はそれ以上、未来の話をしなかった。ただ、初江はかなのほつれた袖を見つけ、千鶴から糸を借りて応急に縫った。針を持つ手が不器用で、縫い目は曲がった。 かなが笑った。 「美容師って、裁縫は下手なんだ」 「髪と布は違う」 その縫い目は、数時間後もかなの袖に残っていた。 夕方、かなと初江が水を取りに出た。 「やめた方がいい」 律子が言った。 「分かってる」 かなは答えた。 「でも、あの子ずっと泣いてる」 危険なのは誰にでも分かっていた。 それでも二人は出た。 壕の入口から差し込む夕方の光は赤く、外の草だけが風に揺れていた。ほんの十数歩先には水のある世界がある。その十数歩が、灯子には海より遠く思えた。 十分。 二十分。 三十分。 外で何度も爆発音がした。 灯子は入口ばかり見ていた。 やがて初江が現れた。 初江は走っているというより、坂を転がるように壕へ入ってきた。肩で息をし、その後ろにかなの姿が見えた瞬間、灯子の肺からようやく息が抜けた。二人とも戻った。その事実だけで、壕の空気がほんの少し明るくなったように感じた。 その後ろから、かなも戻ってきた。 二人とも泥だらけだった。 かなは両腕で水の入った缶を抱えていた。 「取れた」 それだけ言って笑った。 みんなが駆け寄った。 生きて帰ってきた。 水も持って帰った。 誰かが「よかった」と言った。 本当に、よかったはずだった。 その夜、かなは包帯を畳んでいた。 初江が隣で、昼の水汲みのときに破れた袖を見て笑った。 「それ、お母さんに怒られるね」 かなは袖を見た。 「帰ったら縫えば――」 そこで壕の外が白く光った。 遅れて、音が来た。 天井から土が落ちた。 灯子は反射的に頭を伏せた。 耳鳴りが止まらなかった。 誰かが泣いていた。 誰かが名前を呼んでいた。 灯子が顔を上げたとき、かなはさっきと同じ場所にいた。 座ったまま、壁にもたれていた。 ただ、動かなかった。 「かな?」 初江が肩に触れた。 かなの身体が横へ倒れた。 返事はなかった。 砲弾の破片が首の近くに入っていた。 ほんの一瞬だった。 水を取りに出たときには死ななかった。 危険な道を戻ってきた。 みんなが安心した。 それから、壕の中で死んだ。 理由はなかった。 判断を間違えたわけでもなかった。 最後の言葉が何だったのかも、誰にも分からなかった。 「帰ったら縫えば」の続きを言おうとしたのかもしれない。 別のことだったのかもしれない。 もう確かめられなかった。 澄江はノートを開いた。 『山城かな 十六歳』 その下で鉛筆が止まった。 最後の言葉を書く欄は、空白のままになった。

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