白井黒也 / 第20話

第19話「起源」

低い冷却音。 青白いモニター光。 床へ倒れた研究員の荒い呼吸。 全部が遠い。 俺の視線は、画面へ表示された最後の一文へ縫い付けられていた。 BLACKは、実験過程で発生した人格反応である。 つまり、悪の権化だけが“後から生まれた”。 だったら、僕は、お嬢は、賢者は、戦闘狂は最初から。 『……ええ。我々は、実験によって作られた存在ではありません』 賢者の静かな声が落ちる。 だが、その奥にはどこか重い響きが混じっていた。 『ごめんね……でも、翔が自分で辿り着かなきゃいけないって思ったから』 僕の不安そうな感情が、頭の奥へ静かに滲む。 怯えるような、申し訳なさそうな気配が伝わってくる。 「お前ら……知ってたのか?」 『……うん』 僕の小さな返事だけが返ってくる。 けれど、それが妙に胸へ刺さった。 『どうやら、あなたが受け止められない情報は、私たちも口にできないようです』 静かに口を開いたのは賢者だった。 『何度伝えようとしても、その話題になると言葉が出ません』 賢者は一度言葉を切り、自らの現象を整理するようにわずかに思案した。 『まるで、あなた自身が心の奥底へ鍵を掛け、その鍵が私たちの口まで縛っているかのように』 その冷静な説明を聞いても、すぐには理解できなかった。 「……そんなことが、本当にあるのか?」 『少なくとも、私たちはそのように認識しています』 賢者は淡々と答える。 『ハッ、今更だろ。オレらは最初からお前の中にいた。“そういうモン”だと思ってたぜ』 今度は戦闘狂の苛立つような熱量が流れ込んでくる。 「最初から……」 喉がひどく乾く。 じゃあ、俺は何なんだ。 何で人格なんてものがいる。 何で、こんな風になった。 「……私も、翔のデータを見たことがあったわ」 「……俺の?」 「ええ。担当じゃなかったけれど、翔の記録は何度か目にしたことがあった」 澪は表示された記録を見つめながら、何かを思い返すように目を伏せた。 「人格ごとの異能変化。肉体変化。適応率。人格安定性――翔は全部が異常だった」 「……異常って」 「NABが“最高適合”って判断するくらいには」 「じゃあ……何で、何で、俺は分かれたんだよ」 自分でも驚くくらい、声が掠れていた。 その瞬間だった。 ――ガンッ!! 頭の奥で、何かが叩き割られる。 「っ……!?」 脳を無理やり掻き回されるみたいな激痛が走った。 視界が揺れ、呼吸が止まる。 青白いアーカイブの光が、滲むように崩れていく。 そして、目の前には別の景色が広がっていた。 暗い部屋。 古びた天井。 湿った空気。 割れる皿の音。 【なんでアンタは――!!】 鋭い怒鳴り声が響き、身体が強張る。 頭より先に、恐怖の感情だけが全身を支配した。 【ごめんなさい……】 聞こえたのは、震えた幼い声だった。 泣きそうなくせに、必死に声を押し殺している。 俺の声だ。 【うるさいッ!!】 何かが飛ぶ。 ガラスの砕ける音。 反射的に身体が縮こまる。 ――怖い。 ――痛い。 ――逃げたい。 今すぐ、この場所から消えたい。 場面が、ぶつ切りみたいに切り替わる。 今度は、薄暗い書斎だった。 【……また問題を起こしたのか。失望したぞ】 低く冷たい男の声。 怒鳴っているわけじゃない。 なのに、身体が動かなくなる。 胸の奥が、ひどく冷える。 【期待した私が馬鹿だった】 その言葉だけで、息が詰まりそうになる。 違う。 頑張った。 ちゃんとやろうとした。 なのに…何も認めてもらえない。 ――怖い。 ――否定される。 ――壊れる。 だけど、胸の奥で別の感情が暴れる。 ――守らなきゃ。 ――戦え。 ――考えるのです。 ――壊れないで。 幾つもの感情が、頭の中で無理やり引き裂かれていく。 「っ、ぁ……!!」 気づけば、俺は頭を押さえていた。 肺が上手く空気を吸えない。 心臓だけが、嫌なくらい暴れていた。 意識の内側が、一気に騒がしくなる。 『翔っ!!』 僕の怯えた声。 不安と恐怖が、そのまま流れ込んでくる。 『これ以上は危険です』 賢者の声は冷静だった。 けれど、その奥には隠しきれない焦りが滲んでいる。 『無理に思い出す必要なんてありませんわ!』 お嬢の感情も大きく揺れていた。 取り乱しかけているのが分かる。 『チッ……最悪の記憶じゃねぇか』 戦闘狂ですら、苛立ったような熱をぶつけてくる。 だけど、その中で一人だけ。 耳元へ甘く囁く声があった。 『ククッ……ようやく“入口”だねぇ』 悪の粘つくような愉悦が、頭の奥へ染み込んでくる。 『もっと思い出しなよ』 「……やめろ」 掠れた声が漏れる。 だが悪は止まらない。 『君は、そんなモンじゃないだろ?』 記憶の奥底へ、無理やり手を突っ込まれる感覚。 『壊れて、砕けて、それでも残ったから――今の君がいるんだ』 「やめろ……!」 『思い出しなよ。君が“何から逃げたのか”をさ』 悪の声だけが、妙にはっきり響く。 「やめろッ!!」 怒鳴った、その直後だった。 「――動くな」 低い声が、張り詰めていたアーカイブの空気を切り裂く。 反射的に顔を上げると、重たい隔壁がゆっくり開き、その奥から複数の武装兵が雪崩れ込んできた。 黒を基調とした強化装甲。 全面フェイスガード付きヘルメット。 胸部には追加装甲。 腕部には異能対策用らしき拘束装置まで装着されている。 ただの警備部隊じゃない。 最初から、“能力者との戦闘”を想定した装備だった。 無駄のない動きで散開しながら、銃口が一斉にこちらへ向けられる。 空気が、一瞬で塗り替えられた。 澪が咄嗟に俺の前へ出ようとする。 「翔――!」 「抵抗は推奨しません」 低い声が響く。 だが、その声は武装兵達のものではなかった。 部隊の奥から、一人の男がゆっくり姿を現れ、重装備の兵士達が左右へ割れる。 年齢は四十代後半くらいか。 白衣を纏った痩せた男だった。 銀縁の眼鏡の奥に見える鋭い目。 そして、その表情だけが異様なほど穏やかだった。 武装集団の中心にいるのに、まるで研究室にでも立っているみたいに男は俺を見つめる。 その視線に、背筋が粟立った。 敵意じゃない。 そう、それは“研究対象”を見る目だった。 男は小さく口元を歪める。 「……ようやく、“扉”が開き始めたようですね」 その言葉を聞くなり、内側から爆発みたいな怒気が膨れ上がった。 叩き壊したい衝動が、一気に理性を押し流しかける。 ――戦闘狂が出てこようとしている。 「テメェらァ!!」 自分の意思より先に、言葉が口から飛び出し、一歩踏み出しかける。 「おっと、戦闘人格。下手な真似をすれば、澪君の命はありませんよ?」 白衣の男が、穏やかな声で口を開いた。 同時に武装兵達の銃口が、一斉に澪へ向けられる。 「っ……!」 澪の表情が強張る。 その場の緊張が、一気に張り詰める。 頭の奥で、戦闘狂の激情が荒れ狂っている。 『チッ……!!……今は引く』 激しい舌打ち。 暴れようとしていた熱が、無理やり押し戻される。 苛立ちを滲ませながら、戦闘狂の熱がゆっくり奥へ沈んでいく。 代わりに戻ってきたのは、息苦しいくらいの緊張感だった。 白衣の男は、その様子を静かに眺めている。 「安心してください。我々は、君を排除しに来たわけではありません」 まるで研究発表でもしているみたいな、穏やかな声で言葉を紡ぐ。 「だったらその銃下ろせよ」 「それはできません。君は危険すぎる」 その言葉に、頭の奥で戦闘狂が不快そうな熱を滲ませた。 だが男は気にした様子もなく、白衣の裾を揺らしながらゆっくり前へ出る。 「申し遅れました。私は観測派最高責任者、御堂透という者です」 「観測派……」 澪が警戒を滲ませる。 御堂は、そんな澪を一瞥した後、再び俺へ視線を戻した。 その目には敵意がない。 だが、だからこそ不気味だった。 何かを観察するような、冷たい興味だけがそこにあった。 「君達がアーカイブへ到達することは、既に想定済みでした」 「……泳がされてたって訳か」 「ええ。君には、“記憶”へ辿り着いてもらう必要がありましたので」 さっきの記憶が焼き付いていた。 それなのに、目の前の男はそれすら“観測結果”として眺めている。 「どういうことだ?」 掠れた声で問い返すと、御堂はわずかに目を細め、静かな口調のまま告げた。 「単刀直入に言いましょう。君は未完成なのです」 空気が止まった気がした。 御堂の声には、一切の迷いがない。 「確かに君は、プロジェクト・キメラ唯一の成功例です。ですが、まだ進化の途中段階に過ぎない」 「進化……?」 理解できない。 だが御堂は当然のことみたいに頷いた。 「人格分離は欠陥ではありません。人は極限状況下において、自らを分割し、生存可能性を高める」 御堂は感情を交えず語る。 その声色は人間の話をしているように思えなかった。 「そして君は、その可能性を極めて高水準で実現している」 御堂の視線が、まっすぐ俺へ向けられる。 期待…興味…執着。 その全部が混ざった目だった。 「強硬派は更なる実験によって、我々観測派は記憶の補完によって、その先を見出そうとしているのです」 「記憶の、補完?」 掠れた声が漏れる。 御堂は小さく頷き、なおも穏やかな口調で囁く。 「真実を知りたくはありませんか?BLACK以外の人格が、何故生まれたのか」 「――ッ!?」 心臓が大きく跳ねる。 頭の奥で、一気に感情がぶつかり合った。 『ダメだよ……!思い出したら、また翔が壊れる!』 最初に響いたのは、僕の声だった。 強い不安と恐怖が、そのまま流れ込んでくる。 『精神負荷が高すぎます。現在の記憶復元は極めて危険です』 賢者の声も鋭い。 いつもの冷静さを保ちながらも、その奥には明確な警戒が滲んでいた。 『過去を知ることだけが正しいとは限りませんわ。無理に傷を抉り返す必要なんてありませんの』 今度はお嬢。 その感情には、珍しく焦りが混じっていた。 頭の奥が騒がしい。 拒絶、警戒、不安。 人格達の感情が、次々と流れ込んでくる。 だが、その中で一人だけ、悪が粘つくような、愉悦を滲ませる声を漏らす。 『ククッ……知りたいんだろ?自分が“何なのか”をさ』 「……っ」 ――何故、人格が生まれたのか。 その答えだけが、嫌に頭から離れなかった。 「俺に……どうしろって言うんだ」 頭の奥では、まだ人格達の感情がぶつかり合っている。 その全部を押し流すみたいに、御堂は静かに口を開いた。 「簡単です。我々の指示に従い、ある団体と接触してほしいのです」 「団体……?」 「ええ。正確には、その中にいる“ある人物たち”に――ですがね」 その言い方に、妙な引っ掛かりを覚えた。 それは、最初から俺が“誰に会うべきか”まで決まっているみたいだった。 『……誘導するつもりですか』 頭の奥で、賢者の意識が鋭くなる。 「誘導?」 俺が問い返すより先に、御堂はわずかに笑みを浮かべる。 「君には、自分自身の過去と向き合ってもらう必要があります」 感情を感じさせない声音だった。 それなのに、その言葉だけで胸の奥がざわつく。 「彼らと接触することで、失われた記憶は必ず刺激される」 「……っ」 「おっと、拒否するのであれば、澪君はここで処分します」 御堂の声と共に、武装兵の一人が澪の背後へ回る。 銃口が、ぴたりと澪へ向けられた。 「っ……!」 空気が、一瞬で凍りついた。 あまりにも自然な口調だった。 それは“当然の条件”でも提示するようだった。 「翔……ダメ」 澪が、小さく首を振る。 銃口を向けられているのに、それでも俺を止めようとしていた。 怖い。 思い出したくない。 あの記憶の続きを見れば、何かが壊れる気がする。 なのに、胸の奥では別の感情が消えない。 ――知りたい。 俺は何なんだ。 何故、こうなった。 そして、澪を失いたくない。 拳を強く握り締める。 爪が掌へ食い込む感覚だけが、妙に現実的だった。 「……分かった。誰に会えばいいんだ?」 人格達の感情が、一気に揺れた。 それでも俺は、御堂から視線を逸らさない。 その問いに、御堂は僅かに目を細めた。 ようやくここまで辿り着いたとでも言いたげに。 「それは――君の母親だよ」
翔「母親……本当に会えるんだよな」 澪「会えるでしょうね。でも、期待しすぎない方がいいわ」 僕『……怖いよ。翔が壊れないか』 お嬢『どんな結末になろうと、わたくし達は翔様の味方ですわ』 賢者『向き合う時が来たということです』 戦闘狂『邪魔する奴はなぎ倒してやらぁ!』 悪の権化『ククッ……“感動の再会”になるといいねぇ』 翔「次回、『福音の門』――俺の母親ってどんな人なんだ?」

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