白井黒也 / 第5話

第4話「日常の終着点」

銃声は、もう聞こえなかった。 ついさっきまで鼓膜をぶち抜く勢いで響いていた轟音も、タイヤの悲鳴も、黒塗りのセダンの影も。 全部、遠ざかっていた。 けれど――静かになったはずの車内は、不思議なくらい息苦しい。 窓の外を流れていく景色は、もう見覚えのある街並みじゃなかった。 高層ビルも、人通りの多い交差点もない。 代わりに増えていくのは、人気の少ない道路。 古びた建物。手入れの行き届いていないフェンス。 まるで最初から、誰にも見つからない場所を目指していたみたいに。 運転席の澪は、相変わらず何も言わない。 ハンドルを握る横顔は真剣なままで、けれどカーチェイス中の張り詰めた空気とは少し違っていた。 張り詰めているというより――覚悟を決めているように見える。 ……それが、余計に落ち着かない。 助手席に深く座り直しながら、俺は荒い呼吸をどうにか整えようとした。 心臓はまだ速い。 当然だ。 昼間の道路で秘密組織っぽい黒服に追われて、人格交代して、お嬢がトンプソン乱射。 冷静になればなるほど意味がわからない。 ……いや、冷静にならなくても意味はわからない。 けど、一つだけはっきりしていることがある。 澪は、何かを知っている。 しかも、“かなり深いところ”を。 でなきゃ、あんな状況であそこまで迷いなく動けるわけがない。 俺を逃がし、追手を把握し、人格にすら動揺しきらなかった。 普通じゃない。 やがて車は、大通りを外れ、さらに細い脇道へ入っていく。 昼間だっていうのに、人影はほとんどない。 ひび割れたアスファルト。古びたガードレール。ところどころ錆びた看板。 生活感が薄い。 まるで、街から少しずつ切り離されていくみたいだった。 そしてゆっくりと、車が止まった。 「……着いたわ」 澪がようやく口を開く。 その声は静かで、短いけれど、その一言だけでわかる。 ここが、“ただ逃げ込んだだけの場所じゃない”ことくらい。 フロントガラスの先にあったのは、古びた喫茶店だった。 レンガ造りの外壁。色褪せた木製看板。 そこに書かれた店名も、長い年月で掠れて読みにくくなっている。 入口の扉には、“CLOSED”の札。 窓ガラスの向こうは薄暗く、外から見る限りじゃ、とても営業しているようには見えなかった。 「……喫茶店?」 思わず漏れた声は、自分でも拍子抜けするくらい間抜けだった。 俺の反応をよそに、澪はエンジンを切りながら短く答える。 「元、ね」 カチ、と静かにキーを抜く音。 「今は、私しか使ってない」 さらっと言うな。 その言葉だけで、“普通じゃない何か”が逆に濃くなるんだよ。 昼間だっていうのに、この辺りは妙に静かだった。 人通りも少なく、車の音も遠い。 まるで、この場所だけ街から切り離されてるみたいだった。 澪は何でもないことみたいに車を降りる。 「来て」 その声には迷いがなかった。 ……ここまで来たら、もう行くしかない。 俺も重い身体をどうにか動かして車を降りる。 見上げた喫茶店は、近くで見ると余計に“過去の場所”って感じがした。 ガラスには薄く埃。 木製の扉は少し色褪せ、端には細かな傷。 けれど、不思議と完全に廃墟ってわけでもない。 放置されているようでいて、最低限は維持されている。 ……人目につかないように、あえてそうしてるみたいに。 澪はポケットから鍵を取り出し、慣れた手つきで扉を開けた。 小さなベルが、からん……と静かに鳴る。 その音だけが妙に場違いで、少しだけ昔の空気を思わせた。 店内には、営業はしていないはずなのに、かすかにコーヒーの残り香が漂っていた。 木製のテーブル。カウンター席。 壁際の古いメニュー表。止まったままの時計。 時間だけが、途中で置き去りにされたみたいな空間。 「……なんか、普通だな」 もっとこう、隠れ家なら隠れ家らしく秘密基地っぽい何かがあると思ってた。 だが、澪はそんな俺を一瞥して、小さく息をつく。 「表は、ね」 「……は?」 そのまま澪はカウンターの奥へ進む。 そこには古いコーヒーミルや棚が並んでいて、ぱっと見じゃ特に違和感はない。 ……ない、はずだった。 澪が棚の一角――古びたブリキ缶を押し込むまでは。 ガコン。 「っ!?」 鈍い機械音。 次の瞬間、カウンター横の床板が静かに横へずれた。 現れたのは、地下へ続く階段。 「……おいおい」 思わず乾いた声が漏れる。 いや、喫茶店の隠し階段って。 どこの映画だよ。 けれど澪は、俺の反応なんて想定済みみたいに振り返る。 「ここなら、ひとまず追ってこられない」 その声は静かだったけど、確信があった。 ただの避難場所じゃない。 “追われること”を前提に選ばれた場所。 その事実が、じわじわと嫌な現実味を帯びてくる。 澪は先に階段へ足をかける。 「ついてきて」 薄暗い地下へ続くその先は、昼間の光が届かない。 なのになぜだろうな。 ここへ来てからの方が、よっぽど“日常”から遠ざかってる気がした。 ……もう、後戻りはできない。 俺は小さく息を吐いて、澪の後を追った。 ◇ ◇ ◇ 軋むような階段を、下る。 古びた喫茶店の空気は、上へ行くほど“過去”だった。 けれど地下へ進むほど、それは少しずつ別のものへ変わっていく。 木の匂いや埃っぽさ、そしてかすかなコーヒーの残り香。 そんなものは途中で薄れ、代わりに鼻を掠め始めたのは、金属と機械油の匂いだった。 「……おい」 思わず声が漏れる。 階段の先に広がっていたのは、喫茶店の地下倉庫なんて生易しいものじゃなかった。 無機質なコンクリート打ちっぱなしの壁に天井を走る配線。 規則的に並ぶ白色灯が明るく光るが、どこか冷たい。 壁際には大型モニターがあり、見たこともない計測機器が並んである。 複数の端末に、鍵付きのスチール棚。 さらに奥には、簡易ベッドや医療器具らしきワゴン。 そして薬品棚。 ……まるで秘密基地だ。 いや、それだけじゃない。 ここは何かあった時のために、ずっと準備されていた場所だ。 「……喫茶店の地下ってレベルじゃないだろ、これ」 半分呆れ、半分本気でそう零す。 だが澪は、俺の反応を気にした様子もなく、そのまま壁際の操作盤へ向かった。 古びた喫茶店とはまるで似つかわしくない、明らかに後付けされた電子パネル。 指先が迷いなくパネルへ触れる。 ピッ。 ゴォン……! 「っ!?」 低く、重い駆動音。 思わず振り返ると、俺たちが今降りてきた階段へ、天井側から分厚い金属製シャッターがゆっくりと降下していた。 ガコン。ガギィン。 完全閉鎖だ。 ついさっきまでそこにあった“地上への道”が、完全に消える。 「……おいおいおい」 いや待て。 逃走用の隠れ家なのはわかる。 わかるけど。 思った以上に本格的すぎるだろ!? すると澪は、ようやく小さく息を吐いた。 「これで、ひとまず大丈夫」 その声には、さっきまで車を運転していた時とも違う、少しだけ張り詰めた疲労が滲んでいた。 ……ここまで来て、ようやく本当に一息ついたのか。 けれど俺は、逆だった。 安心より先に、理解してしまった。 澪は“逃げるための場所”を知っていたんじゃない。 “追われることを前提にした場所”を、最初から持っていた。 その事実が、じわじわと背筋を冷やす。 「……澪。お前、本当に何者なんだよ」 この状況、どれ一つ取っても“普通”じゃない。 俺の問いに、澪はすぐには答えなかった。 代わりに、操作盤の横にあるメインコンソールへ歩み寄る。 モニターが一つ、また一つと起動する。 暗かった画面に光が走り、監視カメラ映像らしきものが映し出される。 喫茶店一階、入口、裏口、外周。 ……監視網まであるのかよ。 「念のため、しばらくここで様子を見るわ。追跡が完全に切れたか、確認する必要があるから」 言ってることは理解できるけど、その“慣れた様子”が怖い。 まるで、こういう状況そのものを何度も想定してきたみたいで。 澪はモニターを確認しながら、ぽつりと呟く。 「……大丈夫。今は、来てない」 その一言で、少しだけ空気が緩む。 だが、俺の中の疑問は緩まない。 むしろ、ここへ来たことで余計に膨らんでいた。 何なんだ、この場所。 何なんだ、澪は。 何なんだ、俺は。
翔「第四話『日常の終着点』でした」 澪「……ここまで来たら、もう隠しきれないわね」 翔「いや、隠し喫茶店地下秘密基地の時点で十分隠しきれてないからな!?」 僕『で、でも……追ってこられない場所があるのは、ちょっと安心かも……』 賢者『防衛機構、監視網、隔壁構造。潜伏拠点としては合理的です』 戦闘狂『狭苦しい場所だなぁ!』 お嬢『もっと優雅な隠れ家はありませんの?』 翔「んなもんある訳ねぇだろ!」 澪「次回、"同居人の素顔"。――……話すわ。あなたが知りたいこと」

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